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東京地方裁判所 昭和43年(ワ)41号 判決 1970年9月11日

原告 柿藤健一

右訴訟代理人弁護士 吉武伸剛

被告 株式会社小泉商店

右代表者代表取締役 長坂勉

右訴訟代理人弁護士 吉村節也

主文

一、被告は、原告に対し金一七万円およびこれに対する昭和四三年一月一七日より右支払済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

二、原告その余の請求を棄却する。

三、訴訟費用は、これを三分し、その二を原告の、その余を被告の負担とする。

事実

(原告の申立および主張)

原告訴訟代理人は「被告は、原告に対し、金五〇万円およびこれに対する昭和四三年一月一七日より右支払済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求の原因として

一、被告は、原告に対する債権の執行を保全するとして、昭和四二年一一月二二日、東京地方裁判所昭和四二年(ヨ)第一二、〇五六号仮差押決定(以下、本件仮差押決定という。)にもとづき、原告を債務者とし、原告所有の別紙目録記載の建物(以下本件建物という。)につき、仮差押執行をなし、同日東京法務局大森出張所受付第四五、九六八号をもって、その登記がなされた。そして、右仮差押決定の正本は、同年一二月四日、原告に送達せられた。

二、そこで、原告は、同月六日、東京地方裁判所に、被保全権利欠缺を理由に、本件仮差押決定に対する異議を申し立てるとともに、被告に対しても内容証明郵便で、仮差押執行を取り消すよう抗議したところ、被告は、これを容れて、その取消申請をなし同月一四日、東京地方裁判所の取消決定(昭和四二年(モ)第二七、三三二号)があり、同月一六日、前記仮差押登記は、抹消せられた。

三、ところで、原告を債務者とする本件仮差押は、被保全権利も保全の必要もないのに、最初から悪意、あるいは重大な過失によってなされた行為である。すなわち、原告は、被告とは従来からなんの取引関係もなく、したがって被告に対しなんらの債務も負担していなかった。

被告の不当な仮差押によって、原告は四項でのべるような精神的、財産的損害を蒙ったから、被告は、これを賠償する義務がある。

四、原告の蒙った損害は、合計金五〇万円である。すなわち、

1、信用毀損による慰藉料金三〇万円

原告は、水道工事その他衛生設備工事の請負を業とする商人であり、本件仮差押の目的となった建物を営業の本拠として、これを担保に金融取引をしている。しかるに、被告の不当な仮差押執行(たとえ、後に仮差押の登記が抹消されても、登記簿上、仮差押をうけたことは残る。)により、原告の金融機関たる大田区農業協同組合に対する信用は、いちじるしく毀損され、そのためいわれもない苦痛を味った。商人にとって「信用」は生命にもまして重要なものであり、これを毀損されたことによる原告の精神的損害は、金銭に評価すれば金三〇万円を下らない。

2、弁護士費用金二〇万円

原告は、三項で述べた如く、被告に対してなんらの債務も負担しておらないのに本件仮差押の執行をうけたので、これに対して異議を申し立てるべく、昭和四二年一二月五日、弁護士吉武伸剛に訴訟を委任した。そして同弁護士に対し費用として、同月八日金五万円、および翌四三年一月一二日、金一五万円の計金二〇万円を支払った。その内訳は一二月八日の金五万円が異議申立の手数料で、一月一二日の金一五万円のうち金一〇万円は本件仮差押事件が被告の取消により解決したのでその報酬金として、残り金五万円は、本件損害賠償事件の手数料である。しかして、以上の弁護士費用は、被告の不法行為による損害であり、かつその額も弁護士報酬規程の範囲内で取り極め、原告の権利主張に必要かつ相当な額である。

五、よって、原告は、被告に対し、右損害金合計五〇万円およびこれに対する不法行為後の昭和四三年一月一七日から右支払済にいたるまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

とのべ、被告の抗弁に対し、

被告の答弁および抗弁事実二項1の事実のうち香山に原告の代理権があった点は否認し、その余は不知、同2の事実は否認する。同3の事実中、被告から原告に対する内容証明が到達したこと、これに対し原告が被告に保証の事実を否定する旨通知したことは認め、その余は否認する。同三項の事実は否認する。

被告は、保証の事実がないのを知りながら、仮差押によって原告に圧力をかけ、示談にもちこもうとの意図で、本件仮差押におよんだのであり、かりにそうでないとしても、原告は被告に対し、保証の事実を明確に否定したのであるから、被告としては仮差押の執行にふみ切る前に原告と面談して、香山が原告を保証人と表示した事情をよく説明し、かつ保証書等の具体的資料を提示するなどして、この点を十分に確かめるべきであった。にもかかわらず従来からなんの取引関係ない原告に対し、一片の内容証明郵便を出しただけで、それ以上の事実を調査しなかったことは、被告に故意にも比すべき重大な過失がある。

とのべた。

(被告の申立および主張)

被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁および抗弁として、

一、原告の主張事実中、請求原因一および二項の各事実、ならびに、同四項のうち原告が弁護士吉武伸剛に訴訟を委任したこと、原告が水道工事請負を業とすることは認め、その余の請求原因事実は、いずれも否認する。

二、被告の本件仮差押行為は次に述べるとおり被保全権利および保全の必要性を具備した正当なものであって、なんら違法性はない。かりに不当であったとしても被告が原告に対し、被保全権利を有し、その保全の必要があると判断したことには、つぎのような相当の理由があるから、被告は善意かつ無過失である。すなわち

1、被告は、訴外香山設備こと香山光男に対して約束手形金三〇〇万円および売掛代金一一〇万四、九〇五円(昭和四二年八月二一日から同年一〇月二七日まで売り渡した水道用管材料等商品の売掛代金)、合計金四一〇万四、九〇五円の債権を有していたが、香山は昭和四二年九月ごろから、営業不振に陥り、同月二八日、三〇日の二回にわたり手形の支払の猶予を求めてきた。そこで、被告は支払いを確保するため、同月三〇日、信用ある連帯保証人を附することを要求したところ、香山は原告に保証人になってもらうというので、被告はこれを条件に猶予を承諾し、取引を継続した。翌一〇月五日、香山は約束通り、原告の同意を得たと告げ、被告に、原告の記名捺印ある保証書を差し入れた。よって、同日、原告の代理人香山と被告との間に原告が、前記香山の債務を連帯保証する旨の保証契約が成立したというべきである。

2、かりに、香山が原告の同意を得ておらず、もしくは右保証契約の締結につき原告を代理する権限をもっていなかったとしても、香山に権限ありと信ずべき正当の理由がある。すなわち

イ、原告は、香山に水道工事検査品等を購入する代理権を与えていた。

ロ、香山は、若年のころから、原告によって配管工事の技術を仕込まれ、営業上も原告が香山の後見人的役割をはたしていた。さらに、本件保証契約がなされた当時原告は、香山に水道工事届出、検査品購入について原告名義を使うことを容認し、昭和四二年九月~一〇月ごろ、香山が法人を設立する際は発起人になるなど両者の関係は密であった。のみならず、原告は、同人の印章、記名印を香山に預け、任意にこれを使用させていたものである。

3、似上のような事情にあったところ、昭和四二年一〇月三〇日、香山が事実上倒産したので被告は、原告に保証責任を問うため、同年一一月四日、内容証明郵便で協議方を申し入れ、来店の要求をしたが、原告は、翌日、おり返し保証の事実を否認する旨通知してきただけで、これに応じなかった。そこで、被告は香山に事実をたしかめたところ、同人は前言をひるがえし、原告の同意を得ていないが、原告の息子滋雄の同意をもらったといい、早晩、原告にも承諾してもらい、被告本店に同行する旨くり返えすのみであった。滋雄は、原告の営業の実質的担当者でもあるので、香山の言を信じ、かえって、保証書も見に来ないで一片の拒否回答をよこした原告の態度に責任回避の意図あるものと見て、仮差押の迅速性、密行性から、それ以上の調査はせずに、本件仮差押執行におよんだのである。

かように、被告が仮差押をなしたのは、被保全権利および保全の必要性が存したからであり、かりにそうでないとしても被保全権利および保全の必要性ありと判断したことは、相当の理由がある。したがって本件仮差押は、なんら違法性はなく、かりに違法だとしても被告は善意、無過失である。けだし、保全処分である仮差押手続においては、相手方の主張、資料について十分に検討を加える機会はなく、一方的な資料に基づいて判断せざるを得ないのが常態であり、しかも、原告は被告の「保証書を見た上で相談したい」との申入に対しても頑なに拒否するだけであったから、香山の倒産に伴う緊迫した事情の中で、被告は十分に手を尽して、原告に保証責任があると判断したものと言えるからである。

三、かりに、被告に損害賠償の責任があるとしても、前項の事情からみて、原告にも過失があるから、その損害額を定めるにつき斟酌さるべきである。

とのべた。

(証拠)≪省略≫

理由

一、請求原因一、二項の各事実については当事者間に争いはない。

1、被告は、本件仮差押の被保全権利の根拠として、香山光男が原告を代理して、被告との間で保証契約を締結したと主張するので、まず香山の代理権の有無について判断する。≪証拠省略≫によれば、被告会社は、香山設備こと香山光男に対し、水道用管材料等をしばしば売り渡し、昭和四二年一〇月二七日現在合計金四一〇万四、九〇五円の代金債権を有し、そのうち金三〇〇万円の支払については香山振出の約束手形六通を受け取っていたが、昭和四二年九月ごろから香山は経営不振に陥り、同月二八日に金二〇万円および同月三〇日に右二〇万円を含めて金七〇万円の手形金支払の猶予を被告会社に求めてきたので、同月三〇日、被告会社の代表者長坂勉と業務担当者山本芳徳は担保を提供するなら承諾すると答えた。香山が若年の頃から世話になっている原告を保証人に立てることではどうかと尋ねたところ、長坂、山本は了承し、保証文言のはいった売買基本契約書用紙を香山に交付し、原告の印を貰うように指示した。香山はその後原告の長男滋雄に対し電話で保証の依頼をしたところ、ともかく原告方に来るようにといわれたが、香山は事後承諾を得るつもりで、有り合わせの原告と同一名称の記名印、印章を使って、右用紙を連帯保証人欄に、原告の氏名、商号、印影を無断で顕出し、これを翌月五日被告会社に持参し、原告の同意を得た旨告げて、山本に交付したが、その後、今日まで原告の同意はついに得られなかった。

との事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。右認定を覆えし、香山が原告から右保証行為について適法な代理権を事前もしくは事後に得たことを認めるに足る証拠はない。

2、つぎに表見代理の成否につき考えるに、≪証拠省略≫によれば、

香山は、両親を早くに失い、一七才ごろまで原告の養育をうける傍ら、配管工事の技術を教えられ、やがて独立して配管業を営むようになったが、東京都から水道工事店の指定をうけていなかったので、水道工事、工事材料の検査などの届出に際しては、原告の名義を借り受け、原告も香山の要請があれば、右の範囲では原告名義の印章を押捺してやったり、さらに香山の個人営業が倒産し、再起のため三光設備株式会社を設立するに際しては、原告および滋雄はその発起人に加っている。

しかし、香山は原告とは別個独立に配管業を自営し都への届出のためにこそ原告の名義を借りうけることはあったが、営業取引そのものは、香山設備という自己名義で終始していた。また、原、被告間には従来から取引はなく、被告会社の長坂、山本は、前記担保を求めた時にはじめて原告の存在を聞かされたにすぎず、しかもその当時は、香山が若年のころから原告の養育をうけた事実以外には香山に代理権の存在を推認させるような格別の事実を聞かされたわけではなく、発起人の件も事後に知ったにすぎない。のみならず香山が無断で前示保証契約書に押印した原告の記名印、印章は、都への届出のため原告名義を使用するところから、香山自身が作成したもので、原告が所有するものではない。

との事実が認められる。

右に認定した事実関係の下では、香山に原告を代理する権限は認められないし、被告が香山を原告と誤認して保証契約の締結に及んだわけでもないから、被告には香山に権限ありと信ずべき正当な理由があったとは未だいえない。他にこの点について被告の主張を認めるに足る証拠はないから被告の表見代理の抗弁は、いずれの点よりするも理由がない。

二、以上、みたとおり被告が原告を保証債務者としてなした本件仮差押の執行は、被保全権利なくして行われた不当なものというほかない。

ところで、一般に違法な保全処分によって、相手方に損害を与えたとしても、債権者は右保全処分をなすにつき故意、過失がない場合は、これを賠償する義務を負わないものと解すべきである。あるいは、このばあい、当事者間の衡平をはかるため、民訴法一九八条二項を類推適用して、債権者に無過失責任を負わせる考えもないではない。しかしながら、ドイツ法の如く債権者の無過失責任を明言する条文のないわが法の下では、過失責任の原則をくずしてまで、かかる考え方をとる必要もないと思われる。けだし、保全処分は、将来本案の勝訴判決を得たあかつきに、その執行の実をあげるため予め講じておく保全措置であり、債権の満足を得る本執行とは区別されるものであるのにひきかえ、仮執行は、すでに権利の公証をうけた勝訴者が、その確定をまたずすなわち解除条件の成否未定のままあえて、満足に移るもので、その効果は彼此その本質を異にするところがあるから、権衡ということだけで無条件に保全処分に民訴法一九八条二項を類推することは妥当でない。かえって一律に債権者に無過失責任を課することは、具体的事案において、債権者に過酷な負担を強いるばあいもなしとしない。(むしろ当事者間の負担の衡平を図る観点からは、債権者に保全処分の正当性に代わり、この点についての善意、無過失の抗弁を許すことが、民訴法一九八条二項を類推することによる結果の画一性から生じる危険を防ぎ、具体的衡平を実現し、過失責任の原則にもそうものであろう。)

したがって、不当執行を理由とする損害賠償義務も過失責任の原則に立つものと解すべきであるが、すでに認定したとおり、本件については被保全権利の発生を認め得ないのであるから、本件仮差押執行について被告には故意もしくは過失があったものと一応推定される。したがって被告において、保全処分の正当性(被保全権利および保全の必要性の存在)に代えて、この点について善意無過失であったことを窺わしめる事情の存在を挙証しないかぎり、本件の損害賠償義務を免れることはできないものと言わなければならない。

三、そこで、被告が善意、無過失であったか否かにつき判断する。

≪証拠省略≫によれば、

被告は、二1で認定したように、香山に代金支払を猶予し、やがてその支払をうけたが、再び香山がいきづまり昭和四二年一〇月三〇日、満期の手形を不渡りにしたので事情をただすべく香山を被告会社本店に呼び出したところ、香山は事件屋と覚しき紺野なる男を同行し、新会社を設立して債務を整理するから猶予してほしい、紺野はこれを保証する旨申し入れた。しかし被告はあくまで保証人となった原告を連れてくるよう要求し、他方で紺野の信用調査をした結果、同人は横領被告事件で起訴され保釈中の身であることが判り、これまでの香山の言動にも疑念を生じ、本件保証行為についても一応原告にたしかめるべく、同年一一月四日付内容証明郵便をもって保証の件で協議したいから来店してほしいと要求した。しかし、原告からは翌五日付で保証の事実を否定する返信があったので、被告は再び香山を呼び出したところ、香山は前言をひるがえし、保証について原告本人の承諾は得ていないが、息子滋雄の同意を得た、滋雄は原告の婿養子で、原告の営業面を実質的に担当している者であると述べるに至ったので、至急原告の同意をもらうように要求した。しかし、これ以後、原告からなんらの申入もなく、また香山に原告の同意の有無をたしかめてもはっきり否定するでもなく要領を得ない返事をくり返事をくりかえすにとどまった。そこで、前示内容証明郵便で原告が本件保証の名義人となっていることを了知していることは明らかであるのに一片の拒絶回答をよこしただけで、似後なんの収拾策も講じて来ないことおよび原告の後継者である滋雄が保証に承諾を与えているとの香山の言を合わせ考えて、かかるあしらい方は原告が保証の責任を免れ得なくなったことを自覚しながら責任を回避しようとする態度に出たものとみて、同年一一月二二日、本件仮差押執行にふみ切った。

ことが認められ、右認定を動かすだけの証拠はない。

以上の事実に基づけば、被告が本件仮差押執行につき、被保全権利および保全の必要性ありと信じたことすなわち善意であったことは認められるけれども、未だ過失がなかったとは言えない。すなわち、香山が不渡手形を出した後、被告は、本件保証について香山が原告本人の承諾を得ていなかったことを知ったのであるから、本件仮差押執行にふみ切る前に、さらに、原告が真実保証に同意したか否かを慎重に調査すべきが当然の注意義務である。ことに本件では、香山が信用のおけない事件屋らしい者を同行し、前言をひるがえして原告の承諾を否定するなど、その言動に信をおき難い事情が明らかになっているのに、原告の事前もしくは事後の承諾の有無については、内容証明を出し香山に説明を求めた以外は、記名、印影の真否その他についてなんら調査を試みることなく、本件仮差押に踏み切ったことは、原告方が距離的にもさして遠くなく、直接原告に事情をたしかめることも容易に出来たことを考慮すれば軽卒に過ぎるとの非難は免れず、漫然香山の言を信じたことに過失があったというべきである。被告は原告の息子滋雄の同意を得たという香山の言を信用したとも主張するが、香山の言を軽々に信ずべきでない事情がすでに現れていること右に判示したとおりであり、また仮に滋雄が原告の営業を担当しているといっても、それだけで他人の債務の保証について当然に原告個人を代理する権限があるとは一般に考えられないところであるから、右事実をもってしても、前示判断を動かすに至らない。他に被告の無過失を窺うに足る証拠はない。

四、したがって、被告には、本件仮差押執行により、原告の蒙った損害を賠償すべき義務があるので、次に原告の損害額について判断する。

1、信用毀損による慰藉料について

≪証拠省略≫によれば、原告は、大田区農業協同組合から本件建物を担保にして昭和四二年九月一五日、極度額を金三〇〇万円とする与信をうけ、三ヶ月の期間で融資を受け、さらに同年一一月一三日にはこれを金五〇〇万円に拡げ、同月中の借受額も金五〇〇万円に達していたところ、同月二二日に被告から本件仮差押の執行をうけるや、直ちにこのことを理由に右農協から貸金全額の返済を請求されたこと。そこで原告はくわしい事情を説明させるために弁護士をさし向けることもなく同年一二月二〇日全額を弁済したが、その金員は原告所有の東京都大田区南千束所在の家屋を金六三〇万円で売却した代金であること、しかし、この家屋は当初から建売り用として建築した三棟のうちの一棟で、以前から不動産業者に売却のあっせんを依頼していたもので、買手も本件仮差押の当時すぐに見つかっていること、が認められ、これを左右するに足る証拠はない。なお、本件仮差押命令が、昭和四二年一二月一四日にはすでに取り消されていることは前示一において認定したとおりである。

右に認定した事実によれば、原告が大田区農協から貸金の返済を請求されたのは本件仮差押が原因となったものであり、一般に金融取引において与信者は受信者に対して差押、仮差押などの事実が発生したときは、これを一種の信用不安の徴表とみて融資についての期限の利益を喪失させる特約を交していることを合わせ考えれば、本件仮差押によって大田区農協は原告の信用に不安をいだき、その限りで原告の信用が害われたものというべきである。しかし、右信用の毀損状態は被告の仮差押取消により短期に終了し、容易に回復されたものというべきであるから本件信用の毀損による原告の精神的苦痛を慰藉するに要する額は金八万円をもって妥当と認める。なお原告は、本件仮差押の登記がたとえ抹消登記を伴うにせよ残存することをも信用毀損の事実の一として主張するけれども、金融取引上の担保に供しているような不動産に仮差押登記が存在していたとしても、すでに抹消されている以上、一般にはこれをもって所有者の信用毀損状態が継続しているとは言えない。この点についての所論は採用できない。

2、弁護士費用について

原告が弁護士吉武伸剛に対し訴訟委任をしたことは当事者間に争いない。そして≪証拠省略≫によれば、原告は、同弁護士に対し、昭和四二年一二月八日、本件仮差押に対する異議申立の手数料として金五万円および翌一月一二日に右事件の報酬金、ならびに本訴事件の手数料として両者を金額的に分けることなく一括して金一五万円を各支払ったことが認められ、これに反する証拠はない。

ところで相手方の不当な訴訟によりやむなく応訴しあるいは相手方の不当な抗争によってやむなく訴訟を提起したばあい、かかる応訴あるいは起訴について弁護士費用を支払った者は、相手方の不当な訴訟の提起あるいは不当な抗争そのものが不法行為を構成する限り、相当因果関係の範囲内で、相手方にその費用の賠償を請求しうるものと解するのが相当であるが、本訴についてみれば、本件損害賠償請求に対する被告の責任の有無は、すでに一、二項で認定したとおりかなり詳細に事実関係を確定したうえでなければ判断できない微妙な事柄であり、しかもその成否は双方が本訴において提出した諸資料を選別してはじめて確定できる性質のものであるから、本訴請求に対し被告が抗争したからといって、それだけではなんら不法行為とはならないものと言わなければならない。そして、他に、被告の本訴における抗争が不法行為となるべき特段の事情を認めるに足る証拠はないから、右に認定した弁護士費用のうち本件訴訟の手数料相当額については被告に不法行為責任を問うことはできない筋合のものである。そこで、右に認定した原告の出捐のうち本件仮差押解消のために、要した費用額について検討するに、仮差押異議事件の報酬金および本訴事件の手数料として授受された金一五万円のうち前者に相当する金額は、前示のとおり本件仮差押の執行が、被告の自発的な取消申請により旬日余にして取消され、格別の訴訟行為を要しなかったことおよび異議申立手数料として金五万円が先に授受されていることを斟酌すれば、少くとも金七万円を下るものではないと認められるから、手数料と合算した本件仮差押異議事件の弁護士費用は金一二万円と認めるのが相当である。他に、この判断を動かすだけの証拠はない。

五、最後に過失相殺の抗弁について判断する。

≪証拠省略≫を総合すると、香山は、前記認定の事情から原告名義を借りていたが、一々原告の記名捺印をもらうことが面倒になり、原告名義の印章および記名印を自分の方で作ってこれを都への届出に際して使うようになったこと、原告は香山が従来ひんぱんに印をもらいに来ていたのが余り来なくなり、香山の右印章等の作成行為をうすうす感じないではなかったが、あえて咎めたてることもせずこれを黙過していたことが認められる。原告本人の供述のうち、香山に対し原告名義の印章の作成および使用について文句を言っていたとの部分はにわかに措信できず、他に右認定を動かす証拠はない。そして、この記名印、印章が、本件保証契約に使われたことは前記認定のとおりであって、かかる印章類の存在が香山をして本件保証における原告名義の冒用へ走らせたことは十分推認できるところであり、いかに都への届出用に限定する考えであったとはいえ、いつ濫用されるかわからぬ危険性がある香山の右印章等の使用を原告が黙認したことは本件損害賠償額を決定するうえで斟酌すべき過失と言わなければならない。したがって右事情を斟酌し、被告の賠償すべき損害額は一五パーセントを減じた金一七万円とするのが相当である。

六、よって、原告の本訴請求中、金一七万円およびこれに対する本訴状送達の日であること本件記録に徴して明らかな昭和四三年一月一七日から右支払済にいたるまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める部分は正当として認容し、その余は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 山本和敏)

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